2021年 10月 22日
薔薇の季節・イスラエル考への後書き 長いトンネルのような時間の中を、よろよろと歩んできたが、やっとこの暗闇を抜け出そうである。蕩児のメンバー全員でこのトンネルを抜け出て、光の中に立ちたかったがそうはならなかった。私一人だけになろうともこの長いトンネルを抜け出て、光の中に立ちたい。 この「薔薇の季節」は2010年58歳の時、同人誌「蕩児8号」のために書かれた。しかし同人誌「蕩児」はうまくいかなくなってしまった。長い間、同人誌を発行できなかった。この「蕩児8号」もうまくいかなかった。 2021年10月1日 葉山洋蔵 蕩児九号 葉山洋蔵特別号 薔薇の季節・イスラエル考 二〇二一年一〇月一〇日発行 著者 葉⼭洋蔵 発⾏者 倉⽥淳三郎 発⾏所 同⼈誌﹁蕩児﹂編集部 連絡先 葉山 fox_tail425@yahoo.co.jp 倉⽥ kurata@psga-jp.com
印刷 ブックパレットhttps://bookplt.com/ 連絡先 株式会社ブックフロント *https://bookplt.com/gallery(ギャラリー) (ギャラリーにて購入できます。検索欄に題字の一部を入れて ください。またQRコードからも購入できます。) #
by fox_tail425
| 2021-10-22 15:16
| 同人誌『蕩児九号』
2019年 10月 01日
イスラエル13 エルサレム 写真上 svika pick (Svika Pick (tsvika pik ) צביקה פיק の欲しかったLP 写真下 Shlomo Carlebach のイスラエルに持って行ったLP kibbutz Kfar Etzionに配属された兵隊の小隊のガリン・キスフィの連中とエルサレムに遊びに行ったとき、小銃を持った兵士の多さに驚いた。ただ夜のエルサレムを、ぶらぶらと歩いた。途中、ファラフェールという、大きいパンを割ってその中に、小さい肉団子のような形の、まあるい揚げたような物とか、あと好きな物を自分で詰め込んで食べるものを食べた。日本で言えば、立ち食いうどんのような雰囲気である。安価な食べ物ではあるが、もう一度食べてみたいものである。 1978当時、ツビカピック*1というポップスシンガーいたのだが、検索しても分からないのであきらめることにする。何年か前、ユーチューブでヒットして、見ていたのであるが。ツビカピックの歌はいろんなところで流れていた.レコードを記念に買って帰ろうと思ったほどだがShlomo Carlebachのレコードのみを買ってきてしまった。ツビカピックの歌は良識ある大人からは、まゆをひそめられた。バスとかkibbutzの若者のディラー(アパート)なんかでも流れていた。街角でレコード店に入った、 Svika Pick (tsvika pik ) צביקה פיק のレコードはないかとさがすと、すぐにツビカピックのLPレコードのコーナーを見つけた。 *1 Svika Pick (tsvika pik ) צביקה פיק とうとう見つけました!Svika Pickで検索するとウィキペディアにヒットする。 Svika Pick (tsvika pik ) צביקה פיק の歌はポップでドラマティックで明るい。どこかヨーロッパナイズされている。ウルパンUlpanに通うためエルサレムへ、バスで行き来下が、そこで耳にしたツビカピックの歌は、日本人の、いくらか年長の私にさえインパクトがあった。ただかつて日本で一世を風靡したグループサウンズみたいなもので、年少の、どちらかといえば貧しい、東方(モロッコ)系の若者に圧倒的な人気があったように思う。少しでも教育のある人々はばかにしていた。どこか、東方系の悲しみを、演歌を感じさせる。(それでいて明るい。) イスラエルに来てしばらくたつと、ウルパン*2に通い出した。どこかからか聞いて、kibbutzを事務的に代表しているように見えたElyashivに願い出て、許可をもらった。エルサレムの旧市街の近くにあったので、エルサレムの旧市街へは、よく行った。エツィオン・ウルパンEtzion Ulpan*3といったと思う。 *2 ウルパン(ヘブライ語: אולפן、英語: Ulpan)とは、イスラエルにおける各地においてヘブライ語を母語としない者を対象として設置されているヘブライ語教室である。 *3 Etzion is located on Gad Street in the Talpiyot area, about a 10 minute walk from the German Colony。Etzion Ulpan 6 Gad (02) 673-4347 エルサレム旧市街へはZion Gateをよく利用した。Jaffa Gateが普通は利用されると思うが、これを入っていくとアラブ人街となり、聖墳墓教会(キリストの墓とされる場所に建つ教会。イエスが十字架に架けられたゴルゴダの丘、イエスが埋葬された墓地・そして復活した場所を全て含む)を通って、神殿の丘/アルアクサー(銀のドーム)に入る入り口がある。はじめて私が城壁に囲まれたエルサレム旧市街に入ったのは、Zion Gateからである。Zion Gateを抜けるとユダヤ人街が道に沿ってある。道は「嘆きの壁」Western Wall*4に至る。「嘆きの壁」Western Wallの向こうは、神殿の丘/アルアクサーである。その向こうが、イエスが最後の祈りを献げた、ゲッセマネGethsemaneである。 *4「嘆きの壁」Western Wall ユダヤ教の第一および第二神殿の名残である西側の城壁(土台壁)であり、ユダヤ教徒はその壁、さらにははるか昔ローマ軍によって崩壊されたユダヤ教の第2神殿(完成BC515、崩壊AD70)が存在した方向になるべく近い所で神に祈りを捧げる。 イスラム教の第3聖地「アルアクサー寺院」および「岩のドーム」は「嘆きの壁」Western Wallを含む壁(土台壁)の上の敷地内、かつての神殿の跡地に建てられた。そしてその壁(土台壁)の上の敷地内、かつてエルサレム神殿があった。また、このユダヤ教の第2神殿には、かつてイエスキリストが頻繁に訪れ、またイエスが神殿を潔めた(ヨハネによる福音書2章13~25節)ところでもある。 「嘆きの壁」Western Wallに向かって右手上方に吊り橋状の、神殿の丘/アルアクサーに入る通路がある。私はアラブ人側ではなく.ユダヤ人側の人間だったので(イスラエルの主要な交通機関であるバスも、ユダヤ人が乗るのと、アラブ人が乗るのとは別個だった。)アラブ人街へはほとんどいかなかった。ただ、「嘆きの壁」Western Wallから神殿の丘/アルアクサーに入る入り口には、敬虔なユダヤ教徒は神殿の丘/アルアクサーに入らないとの注意書きが書いてあったので、神殿の丘/アルアクサーに入るのは気が引けた。そこで神殿の丘に入るためにJaffa Gateを通り抜けた。 聖墳墓教会(キリストの墓とされる場所に建つ教会。)を通り過ぎ、イスラム教徒以外の者が通り抜ける、神殿の丘/アルアクサーの入り口を通って神殿の丘/アルアクサーに入った。途中はすべてアラブ人の居住区で家と家がひしめいていた。アラブ人とユダヤ人はきっちりと、別れており、私は、ユダヤ人側の人間だった。神殿の丘/アルアクサーに入ると、混雑した旧市街から一転、広大な土地に青空が広がり、木々が茂り、静かな公園のようになっていて、とても過ごしやすい場所となっていた。イスラム教徒(アラブ人)の家族が木陰でピクニックをしている様子なども見られ、くつろいだ雰囲気だった。 入ってすぐ前にアルアクサーモスクがある。ここは、預言者ムハンマドが一夜でサウジアラビアのメッカから「遠くの聖なる地」に行き、祈った場所とされている。真ん中にエルサレムのシンボルとも言える金色に輝く、岩のドームである。イスラム教では、預言者ムハンマドがここから天に昇った場所とされる。 また岩に穴が空いており、魂の井戸と呼ばれている。どちらのモスクとも靴を脱いで、中に入って、中の雰囲気に浸った。特に「岩のドーム」は、印象深く記憶に残っている。 城塞で囲まれた旧市街の南西部にあるZion Gateを抜け、ユダヤ人街を通っていくと道が細くなり、「嘆きの壁」Western Wallに近づく。細くなった所に宝石商がかたまってある。そこにkibbutzで一緒に住んでいる、南アフリカからのアロン(ロニー)の親類の店がある。また、その手前にちょっと広くなるところがあって、そこにロシアからのイシャヤフー(イザヤ)が住んでいた。kibbutzで、サッディー・イスラエルに紹介されたのであるが、私の知っている唯一のロシア人である。kibbutz Kfar Etzionの人々はどちらかといえば感じが日本人に似ている。すこしひかえめである。ロシアからのイシャヤフー(イザヤ)は違った。全くオープンであったし、オープンな人以外は相手にしないかもしれない。私はイシャヤフー(イザヤ)に「旧市街の自宅に訪ねてこい。」ということだったので、日にちも約束せず、行き当たりばったりに訪ねてみた。偶然、イシャヤフー(イザヤ)はいた。「寄って飯でも食べてけ!」と言うことだったので、台所でシチューをごちそうになった。食事のあと、20畳ほどの居間で一人がけのソファーに座って、おしゃべりをした。壁面にはクラッシックのレコードがぎっしりとつまったいた。クラッシックのレコードをいろいろ聞いた。クラッシックも、初歩的なことは知っていたので、楽しかった。 kibbutz Kfar Etzionで出会ったブラジルからのルウベンも kibbutzを出ると旧市街に住みだした。 イシャヤフーの家の近くだった。 ウルパンUlpanへ通ったのは、三ヶ月だった。途中で見かけた、石造りの塀の向こうの大きなレモンの木。レモンの木は初めて見た。黄色いレモンがいっぱいなっていた。kibbutzからエルサレムに向かうバスの中からは、桜の花に似たアーモンドの花が所々に見えた。エルサレムのバス停を降りてウルパンUlpanに向かう途中の、オレンジ色の屋根の家々と道路のゴミ捨て場に群がるしっぽがキツネのような、かわいい猫たち。kibbutzでもエルサレムでも猫は嫌われ者だ。道路のゴミ捨て場に群がっているというイメージが強くて、ペットとしてかわいいというと信じられないという感じだ。 ウルパンUlpanの門のところには番人がいて、おまえは中国から来たのか?と聞かれた。中国人というと、燃えよドラゴン』(もえよドラゴン、英題:Enter the Dragon、1973年製作、公開の、ブルース・リーが絶大な人気を誇っていた。kibbutz のサッディ・イスラエルもエルサレムで日本人に空手を習っていた。一度見学したことがある。私は、ブルース・リーのこととか、空手のことを聞かれると、大学の体育の授業でボクシングをやった、と冗談めかして言った。 番人がいる門を入ると木立があってその向こうに教室のある三階建てくらいの褐色の古い教室がある大きな建物が見える。その建物に張ってクラス分けのための口頭試験が行われた。私は結構しゃべれたので、下から二番目だか、三番目のクラスにはいった。クラスを指導する先生はミハルと言った。門から右手の方にやはり同じくらいの建物があった。そこはウルパンUlpanで学ぶ人のための、寄宿舎だった。そこにはあとで親しくなる、イギリスのリバプールの近くの町から来たアブラハム(アンドレ)が住んでいた。 私の入った、ミハルの受け持つクラスは、50名くらいで、しばらく経つと生徒の数がどんどん減っていった。ミハルは50代ぐらいの普通の女性だった。イギリスからのアブラハム(アンドレ)は同じクラスだった。先生のミハルが言った。「アブラハムはイギリス人らしいイギリス人ね!」人に対して、クールにつきあうからだろう。個人主義者といっていいのかもしれない。自己紹介の時、ビートルズとリバプールのことを話して、リバプール近くの自分の故郷を説明した。日本人にも出会った。イスラエルに来ているのに、日本人に会いたくはなかったが。キリスト教関係の日本人のコミュニティーに属していて、食事に招待されたので出かけて行った。 大きなディラア(アパート)で数名が一緒に暮らしており、コミュニティの拠点のようだった。みんな振る舞いが自然だった。(私のように見知らぬ所に一人で飛び込むのも、一っ手かもしれないが、集団でコミュニティを持っているというのは強いと思った。)10名ぐらいの若い男女のコミュニティーでエルサレムの生活をエンジョイしているようだった。レンガを重ねた上に棚板を何枚か渡した本棚が印象的だった。 フィクレというエチオピアからの黒人のユダヤ人にも出会った。黒人のエチオピアからのユダヤ人は最近来だしたらしく、所々で見かけた。 「ミハルのクラスをやめて、他の人気あるクラスに移動しないか?」という誘いを、時々受けた。人気のあるクラスは教室がぎっしりと人で埋まり、廊下に人があふれていた。そのうち私の通うミハルのクラスは、生徒が5名くらいになった。ミハルは悪い人ではない、むしろ誠実な人だ。でもイスラエルというところはきびしい。少しでも上手な先生がいるとそちらへ行ってしまう。ミハルは3ヶ月後の授業の終わりに、最後まで残った私たち5人の生徒をエルサレムのカフェに連れて行った。そしていろいろおしゃべりをした。 ウルパンUlpanでは3ヶ月後の授業仕上げとして、各クラスで寸劇を企画した。ミハルのクラスでも、イスラエルの市民生活を風刺した寸劇を、企画したのであるが、私は、気が乗らなくてフェイドアウトしてしまった。気になってその劇をみたのであるが、りっぱにやっていた。 印象に残っている出会いは、ボビーという片腕の青年との出会いだ。ボビーは右手が肩からなかった。来たのはたぶん、アメリカから。中東系のような、ちょっと疲れたような美人の、奥さんがいた。ボビーにとって奥さんは、絶対的な母親のような感じだった。ボビーがウルパンUlpanの生徒で、奥さんはその後見人で、ボビーが心配でいつも彼を追いかけていた。あるときボビーが話しかけてきた。私に自分と同じにおいをかいだのかもしれない。「いちど、家に遊びに来ないか?」 エルサレムのダウンタウンにある、ちょっと経済的に恵まれない、中東系の人々が肩を寄せ合って暮らしているような、いつも中東系の、アラブ人ぽい音楽が流れているディラー(アパート)の2階を訪ねた。18畳ぐらいのワンルームだった。中東風の音楽がながれていた。廊下に面しており、廊下に台所があった。ドアを開けて左手にはベッドがあり、その周りには本が平積みされて、ベッドを囲んでいた。平積みされたほんの多さが異常だった。「僕は、こんなにたくさんの本を読んでいるんだ!」と本が自己主張しているようだった。片腕で、読書家のボビーに似つかわしい、ちょっと疲れたような奥さんは、廊下にある台所で、食事を作ると、こちらにシチューを持ってきて、みんなで食事をした。 ガザの近くの入植地に、入植するという人もいた。そういう人には政府が宿泊施設を提供していた。ガザの近くだと治安が悪いだろうというと、そんなところほど入植条件が良いんだと言っていた。 結局、イギリスからのアブラハム(アンドレ)とは一番親しくなり、kibbutz Kfar Etzionを一緒に歩いたり、David and Hana Amitを一緒に訪問したりした。私が40代半ばになって、突然、イギリスに住んでいる、アブラハム(アンドレ)から手紙を受け取ったりした。 あるときエルサレムで「日本の歌」と題するコンサートがあった。kibbutz Kfar Etzionから数名で(その中にタミーがいた。タミーは新しくkibbutzに来た兵役の女性である)出かけていった。コンサートは童謡とか日本らしい、たとえば滝廉太郎の「荒城の月」とか「花」などで、エレクトーンと合唱でやっていた。外国人からするとエキゾチックな香りがするだろうなと思った。日本人のメンバーが私たちの所にも来たが、私がイスラエル人の間にいるのを見かけると、意外なものを見たという表情をした。イスラエル人の間に過不足なくとけこんでいたからだと思う。私はそこで生活をしていたからだと思う。そういう自分のありかたというのは、その人の個性だと思う。 kibbutz Kfar Etzionには、私がいた間でさえ、オーストラリアやアルゼンチン、ブラジルのユダヤの青年のmovementがやって来て半年ないし10ヶ月ぐらいkibbutzで生活した。また軍隊の女性の小隊も交代でやって来て、kibbutzで仕事をやっていた。 kibbutzでの生活はいろいろ発見があった。特に同じくらいの年代や二十歳前後の若者たちが多く、刺激的だった。私に心を開いてくれる人が何人かいて、シャバットの時に招待を受けて出かけて行ったのが、楽しい思い出である。アビ・ペレツと一緒にテルアビブの近くのビーチに行って地中海を見たのも忘れられない。シナイ半島への旅行、砂漠と大きな岩の山そしてオアシス、紅海とアカバ湾、海の青さと静けさ。ガリラヤへの、イエスキリストが活躍した地への旅行。死海とヨルダン川。 kibbutzでの生活が1年たとうとする頃、いろんな意味でシグナルを受け取った。私はイスラエルでの生活を切り上げて、日本に、東京に帰ることを決断した。決断できたのは、私だけの力だけに、よるものではない。ラァッフィ・サックビル Rafi (Garry)Sackvillのおかげである。 日本には真っ黒に日焼けして帰ってきた。 #
by fox_tail425
| 2019-10-01 17:38
| 宗教・哲学について
2019年 07月 04日
イスラエル8(Elyashiv Mordechai Knohl*1 と Hanan Porat *2) Elyashiv Mordechai Knohl Elyashiv Mordechai Knohl*1 と Hanan Porat*2 Elyashivが、2018年4月20日亡くなった。1年前のことだ。(1948年に生まれ) Hananも、亡くなっていた。1943年12月12日生まれ- 2011年10月4日*1 Elyashiv Mordechai Knoh 6日間戦争後、1967年に再設立に参加したメンバーの一人。1948-2018 *2 Hanan Poratも上記に同様である。1944-2011 1978年当時、Kibbutz Kfar EtzionではBeth (ha)Kuneseth(ユダヤ教の会堂)の指導を上記の二人が担っていた。二人とも若く、Kibbutzも若かった。私が25才で、Elyashivが29才、Hananが33才、Kibbutzが再設立されて11年しか経っていなかった。みんな若かった。kibbutzの住民はみな同じような年代だった。 Elyashivが、Beth (ha)Kuneseth(ユダヤ教の会堂)で頭にキッパ、肩にマント(タッリート)*3をつけて、一心不乱に祈っていた。何にも考えていないのに違いない。ユダヤ教会堂の高い天井の大きなガラス窓からは柔らかな光が差しこみ、Elyashivを包み込んでいた。 Elyashivで、印象に残っているのはその姿だ。 おなじく神に祈っているとはいっても、Elyashivはこちらの世界に戻ってきて、100パーセントこちらの世界で目覚めていた。それに比べて、政治的にか宗教的にか有力な人の息子がKibbutzで暮らしていた。彼が、ユダヤ教会堂から出て来たとき私に時々声をかけてきた。 ――Yoshi,どんな調子だい?これから僕のdira(家あるいはアパート)にちょっと寄ってかないか? 独身だし、食事は食堂でできるし、なにか瓶に入った標本のようなものがあったことを記憶している。あとは何もなかった。 その青年は神に浸かれているように感じた。時々祈りの文句が口からつぶやかれた。すこし人々からずれているように感じた。一人でいることに孤独を感じないように見えた。家庭を作っていくようには見えなかった。 ある時、僕の住んでいた dira アパートの前を乳母車に赤ん坊を乗っけてElyashivが歩いていた。 ――元気でやっているかい、Yoshi?! ある時は、奥さんと歩いていた。お似合いの奥さんだった。ヨーロッパ系で、とにかく頭が切れそうで、細身で、ヤナギみたいかな?ある時はBeth (ha)Kuneseth(ユダヤ教の会堂)の前の石畳の上で。 ――カントール*4! と僕がElyashivに言って、苦笑い的なニュアンスで言い返されたことを覚えている。 ――ああYoshiは何でも知っている。 Kibbutzの事務所でルティと机を並べて働いていたのを思い出す。二人ともチャイルドライクでお似合いだった。 ――腕時計のガラスの部分を、工場での仕事中に割っちゃたけどKibbutzでいくらか負担してくれないか?50%ぐらい工場に責任があると思う。 ――では50% Kibbutzで負担しよう。 いつもElyashivは明晰で、明快だった。 *3 キッパ ユダヤ教の民族衣装の一種。男性がかぶる帽子のようなもの タッリート、タリット(???????? tall?th, アシュケナジム式ヘブライ語:talis)は、ユダヤ教の礼拝の時に男性が着用する、布製の肩掛け。 *4カントール ハッザーン(ヘブライ語: ??????? chazz?n,)とも言う。ラテン系の言葉で言えばカントル、カンター(CantorもしくはKantor)となる。「朗詠者」「先唱者 precentor」と訳されることもある。 ハナン Hanan については特に話すような思い出はない。ユダヤ教会堂 Beth (ha)Kuneseth と食堂は Kibbutzの中心的な施設で、精神的にも、その間は重要な道であった。その周りは芝生で囲まれていた。その30~40mの道でよくハナン Hananと言葉を交わした。ハナン Hanaが私に話しかける時、ハナン Hananが私を歓迎しているのがわかった。ユダヤ人の間にユダヤ教に関心を持って日本人が入ってくるのが珍しかったのだと思う。ある時は祈りが終わって、ユダヤ教会堂 Beth (ha)Kunesethの半地下の集会所で、ハナン Hananが主催する聖書の講話に参加したりした。 ハナン HananはキブツKibbutzの人たちに評判がよく一目置かれていた。ユダヤ教会堂 Beth (ha)Kunesethの指導者になってほしいと頼んでも、自分はまだまだそんな器ではないといって、ユダヤ教会堂の宗教的指導者になることを拒むのだった。のちにハナン Hananは政界に進出していくことになる。 一方 Elyashivはラビ*5となって、キブツ Kibbutzを指導していくことになる。 *5ラビ ユダヤ教に於いての宗教的指導者であり、学者でもあるような存在 #
by fox_tail425
| 2019-07-04 15:22
| 宗教・哲学について
2019年 05月 20日
旧約聖書13 Suzuki氏との出会い (写真 厳島神社にて) 僕は20才くらいの頃、とある所でSuzuki氏と出会った。 そこで、僕はSuzuki氏にヘブライ語の手ほどきを受けた。旧約聖書の創世記1-5節を読んだ。もちろん、ヘブライ語のアルファベットから学ぶのだが。 道をはさんで療養所の敷地が広がっていた。 絵を描く時間があって、Szuki氏は木の絵を描いていた。画面の中央に根を大きく広げた木があって、その木のの上方には虹が大きくかかっていた。その絵ももらったのであるが、もうどこかへ行ってしまった。 僕はそこを出ていくことになった。Suzuki氏は別れに、そこでよく一緒に聞いた「At the Village Gate」Shlomo Carlebachのレコードと書き込みの入ったヘブライ語の旧約聖書を僕にくれた。 (数年後、僕はその2つを携えてイスラエルに渡ることになる。) あと持って行ったのは、日本語の口語訳の小さな、古本屋で手に入れた聖書と、関根正雄の『イスラエルの思想と言語』『古代イスラエル研究』古井 由吉『杳子・妻隠(つまごみ)』。 私の本格的なのめり込みは、Suzuki氏との出会いと、そのヘブライ語の手ほどきに始まる。Suzuki氏は聖書に打ち込んできた人間だった。別れの時「At the Village Gate」 Shlomo Carlebachのレコードと書き込みの入ったヘブライ語聖書を受けとった。 次に私はMotai女史に現代ヘブライ語を学んだ。 現代ヘブライ語を学ぶことによってユダヤあるいはヘブライ語が身近になった。特に現代ヘブライ語で作文をするようになってからはそうだった。 疑問 ヘブライ語は数ある言語の中で、高い位階を占めているように思う。でもなぜ言語に位階があるのか?あるいはかっこいい言語とそうでないように見える言語があるのか?例えばアマゾンの、あるいはニューギニアの未開な土人の言葉は位階が低いように見える。人の生涯をかけてそれを学ぶには値しないように見える。(もちろん、その位階を逆にする人もいると思うが) ヘブライ語は古典的な言語の1つである。ヘブライ語が指し示す文化、旧約聖書、ユダヤ人の世界にひかれたといって良い。それは自分の教養の低さのあるいは文化的な後進性故なのか? どちらにせよ私は、ヘブライ語の海に飛び込んだ。
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by fox_tail425
| 2019-05-20 23:20
| 宗教・哲学について
2019年 05月 16日
イスラエル6 始まりと終わり 僕は20才くらいの頃、とある所でSuzuki氏と出会った。 そこで、僕はSuzuki氏にヘブライ語の手ほどきを受けた。旧約聖書の創世記1-5節を読んだ。もちろん、ヘブライ語のアルファベットから学ぶのだが。 道をはさんで療養所の敷地が広がっていた。 絵を描く時間があって、Szuki氏は木の絵を描いていた。画面の中央に根を大きく広げた木があって、その木の上方には虹が大きくかかっていた。その絵ももらったのであるが、もうどこかへ行ってしまった。 僕はそこを出ていくことになった。Suzuki氏は別れに、そこでよく一緒に聞いた「At the Village Gate」Shlomo Carlebachのレコードと書き込みの入ったヘブライ語の旧約聖書を僕にくれた。 (数年後、僕はその2つを携えてイスラエルに渡ることになる。) あと持って行ったのは、日本語の口語訳の小さな、古本屋で手に入れた聖書と、関根正雄の『イスラエルの思想と言語』『古代イスラエル研究』古井 由吉『杳子・妻隠(つまごみ)』である。 しかし、1年後私は、自分の限界にいたのかもしれない。 アロンが立ち去った部屋に陣取って居た私は、鉄製のベッドの足を折りたたんで、地面の高さにベッドを置いていた。 どこか異常な雰囲気があったのかもしれぬ。 ラァッフィ・サックビルは私にhomeでしばらく休めと言った。疲れている時は、homeで休まなきゃだめだと言った。この忠告を聞き入れなければ絶交すると強く警告した。 私は友人のラァッフィ・サックビルの忠告を聞きいれて、イスラエル滞在を1年で切り上げることにした。2年の予定できたのであるが・・・ ユダヤ教会堂にはまじめに通った。kibbutzを出るとき、kibbutzを代表して友人のサディ・イスラエルよりシッドゥール(siddur*)をプレゼントしてもらった。 *シッドゥールは 3つの毎日の祈りを含む、私たちの伝統的な祈りの本です。 私にとってイスラエルとは、ヘブライ語とは、あるいは旧約聖書とは何なのか? たった1年の滞在でイスラエルの、ユダヤ人の何がわかるというのか? 私は論文を書くために、ある研究課題をもってイスラエルにおもむいたのではない。漠然とした不安を持って、あるいは誰しも多い少ないはあるとは思うが、宗教心を持って、救いを求めて、あるいは仏教的にいうならば悟りを求めて・・・あるいはミーハー的に海外に出てみたいに出てみたいという思いをもって。 イスラエルで私は、何を見たのか?あるいは何も見なかったのか? 私にもよく分らないところがある。ただ同人誌蕩児に発表した「イス・ラ・エール(葉山)」にそれは封印されている。その封印を解くことをこれからの1つの課題としたい。封印を解いたところで、ユダヤの祈りの文句が1つ出てくるだけかもしれないが。。 イスラエルへの入国の時、手間取った。話すとき、英語とヘブライ語のどちらにするか聞かれるのだが、私はためらうことなく、へブライ語を選んだ。その方が自然だった。といっても何とか意思疎通ができる程度だけれど。 ベングリオン空港からエルサレムのバス停まで、タクシーに乗った。運転手と訳のわからない会話をしていた。運転手はいいカモだと思ったのに違いない。エルサレムのバス停でkibbutz Kfar Etzionに行くバスをさがした。近くにいたユダヤ人にヘブライ語で聞いた。私はヘブライ語を話している、イスラエルにいるということを実感した。 夜、8時か9時ごろだったかもしれない、kibbutz Kfar Etzionに着きバスを降りた。暗闇が拡がっていた。私は、Davidde amitteの家を人に聞きながら、訪ねた。嘆きの壁*でベートーベンの第九もしれない、コンサートがあったのだ。そのせいでamitte夫妻は留守にしていた。私が暗闇の中でどうしようかと考えていると、一人の男が話しかけてきた。それは二階のディラー(アパート)のラン・ツールだった。 *嘆きの壁は、ヘロデ大王時代のエルサレム神殿の外壁のうち、現存する部分。神殿はユダヤ教で最も神聖な建物であった。私はエルサレムに行くとよく立ち寄った。 #
by fox_tail425
| 2019-05-16 16:18
| 宗教・哲学について
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